Rikoの心のノート

ちょっとしんどい話あるけどさ、Rikoちゃん、ちゃーんと強くなっていくから安心してみてよ。

怪我をした私に母が言う事

思えば、小学校に入るまでは母に冷たくされていても

あまり自分の中で 母の愛、みたいなのを大きくは捉えてなかったように感じている。

 

何より父の存在が 母のストッパーになっていたのかもしれない。

 

でも小学校に入ってから、徐々に私の母に対する不信感は大きくなっていった。

 

 

注意散漫・不注意のオンパレードだった私は怪我をして帰ってくる事が多かった。

家から学校までは 子供の足で1時間くらいかかるんだけど

 

寄り道をしたり、近くの川でザリガニを捕まえたりするようなアクティブな小学生になった私は、自転車で急な坂を下ってブレーキが利かずにぐるぐる回転して怪我をしたり

 

バイクのマフラーに足が触れている事に気が付かず火傷したり…

 

指の爪なんか多分一通り全部はがれてるw

 

それぐらい怪我が多かった。

 

その度に母は私を叱った。

 

「病院代がかかる」と言いながら叱られていたけど

 

その時私は

 

「私に少しでも時間を割くのが嫌なんでしょ」

 

みたいな感情があった。

 

だからそのうち怪我をした事すら怖くて母に言えなくなっていた。

 

そんな中で私はまたやらかした。

 

自転車で友達の家に遊びに行く時、転倒してブレーキの所が足の上に落ちてきた。

なんか刺さる感じで。

 

その時は、そんなに痛いと感じなかったんだけど足を見たらどんどん血が出てくるのが見えて息がしずらいほど痛かった。

 

そんなときに真っ先に思った事

 

 

「ママに怒られる」

 

だから怖くて言えなくてその日の夜は「お腹が痛い」といってお風呂は入らなかった。

 

次の日には靴下の中で足の指の肉が裂けているのもわかるぐらいだった。

実際は、うっすら骨が見えてた。

 

でも母には言えなくて、そのまま友達の家に遊びに行くと

 

友達のお母さんが私の足を見てびっくりしていた。

 

「大丈夫?痛かったよね?よく我慢したね!おばちゃんが病院連れてってやるけん、座っとかんね」

って言ってくれた。

 

その瞬間、どばーーって涙が出てきたのを今でも覚えてる。

 

母が気づいてくれなかった私の異変にすぐに気づいてくれた。

 

母が言ってくれなかった言葉を当たり前のように私にくれた。

 

他所の子の私を抱っこして車に乗せてくれ病院にいる間も、「大丈夫やけんね、痛くないようにしてもらうけんね」

と励まし続けてくれた。

 

結果的に私の怪我は3針縫う怪我で、今でもその傷は残っている。

 

ただ、心は救われた。

 

えりかちゃんのお母さん、あの時は本当にありがとう。

 

受診が終わった後、えりかちゃんのお母さんは「お母さんにおばちゃんが説明してやるけん心配しなくていいよ」って言ってくれて

 

私の母に説明してくれた。

その時母は

 

「わーーーすみません!この子ケロっとしとるし、全然言わんからわからんくて、ありがとうございます」

と言いながら病院代をえりかちゃんのお母さんに渡していた。

 

えりかちゃんのお母さんが帰った後は、地獄だった。

母からの私に対する思いを何一つ感じられなくて地獄だった。

 

「あんたが言わんけん私が恥かいたやろ」

 

この人は相手からの自分の印象だけを気にしているんだ。

 

私はケロっとなんかしてない。

あんたが怖くて言えなかったんだよ。

 

また「お前のせいで」って言われるのが嫌だったんだよ。

ふざけんなぁあああああ。

 

「痛かったやろ?気づかんくてごめんね、もう大丈夫やけんね」って言ってほしかったんだよぉぉおおおおお

 

RikoのTwitter ⇒@Rikopin0911

 

Rikoの公式LINE ⇒https://lin.ee/SqbruA5

 

くろりこちゃんのTwitter ⇒@Kurorikopi

 

Riko・黒矢修吾の公式LINE 個人鑑定のお申込みも以下から出来ます ⇒https://lin.ee/XWD3kz9

 

 

 

 

 

幼少期 おばあちゃんと母の喧嘩2

兄が言った

 

「お前のせいで ばあちゃんとママ喧嘩しよるとよ」

 

って言われた事がショックだった。

私が大好きなおばあちゃんと、母の仲を最悪にしてしまったと後悔した。

 

何かあっても、おばあちゃんに話したら大変な事になると思った記憶がうっすらある。

 

それに、父がいるときはいつもの母だったから

父に話そうとも思わなかったんだと思う。

 

幼稚園の行事には母はいつも来ていたし

習い事の送り迎えもしてもらっていたし

 

母が私の事が嫌いかもしれないとか、幼い私は全く考えていなかったように思う。

 

それでも兄の方がなんでも先を歩いてて、

(まぁ始めたのが何でも一年後だから仕方ないのかもしれんけど)

 

私の兄に対する対抗心が消えたのは、もっともっと後の話。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

この話を思い出しながら書いている間、いくつか整理がついた事があった。

 

おばあちゃんは私たちの事を思って私の母を叱った。

お腹をすかせている私を心配した。

 

母は確かに、その日遅く帰ってきただけで

私にでかける事も伝えてくれていた。

 

そして

それまでは

 

ご飯も作ってくれていたし、私が好き嫌いをしたときには叱ってくれた。

 

私のお弁当を作ってくれたり

髪を結んでくれたりしてた。

 

「ちゃんとやってます」

 

だった。

 

でも私がおばあちゃんに電話した事で母は私に対して冷たくなった。

 

私は私で

おばあちゃんに電話をすれば、来てくれると分かっていた。

その時、電話をしたことで母と祖母が喧嘩をするなんて思わなかった。

 

 

不安だった

母が帰ってきてくれるのか

 

 

お腹がすいていた

 

それだけだった。

私がした行動は、二人が喧嘩をするきっかけになってしまったけど

当時の私にそれ以外の選択肢が思いつかなかった。

 

そして母は気持ちを消化する為に、私への関心を逸らすしかなかったのかもしれない。

 

「誰も悪くないんじゃないか」

 

と少しだけ思えた。

 

RikoのTwitter ⇒@Rikopin0911

 

Rikoの公式LINE ⇒https://lin.ee/SqbruA5

 

くろりこちゃんのTwitter ⇒@Kurorikopi

 

Riko・黒矢修吾の公式LINE 個人鑑定のお申込みも以下から出来ます ⇒https://lin.ee/XWD3kz9

Rikoの幼少期1

私の幼少期は

今の私からすると、ちょっと暗い感じもあったかも。

 

仲いい人とは、うぇーい!みたいな感じなのにちょっと気の強そうな子がいると

しゅんってなるみたいなw

 

でも、どこにでもおりそうな平凡な女の子だったと思う。

 

幼稚園児や小学校低学年までの私の母は、面倒見のいい母親だったと思う。

髪の毛を結んでくれたり、お弁当を作ってくれたりとか、

 

「りこちゃん」

 

なんてちゃん付で呼ばれてたり。

 

ただ、一個年上の兄とすごく比べられたりしてたから

兄に勝ってやろうって気持ちはあったかも。

 

だから幼稚園の時に少年サッカーに入ったり、兄の真似してピアノしたり

兄に勝つことにこだわっていたと思う。

 

常に兄を意識していなぁ。

 

思えば母の私への当たりがきつくなり始めたのは、これかなっていう鮮明な記憶があるんだけど

 

幼稚園の年長くらいの時、幼稚園バスで帰ってきてすぐに

「ママ、今から出かけてくるからね」

 

って言われて

 

どれだけ待っても帰ってこなかったんよ。

 

(小さかったから時間の感覚がわからんけど、もしかしたらちょっと暗くなってたぐらいかもしれん…覚えてないけど)

 

私にとっては、すごく長い時間で

 

父も仕事が遅くて夜中になる事が多かったし

父の電話番号は覚えてたので電話しても

 

「すぐ帰ってくるけん、ちょっと待っとき」

 

としか言われず

 

んで、兄は寝てしまって

 

そのうち、お腹すいてしょうがなくて

近くに住んでた父方のおばあちゃんに電話をかけたんよね。

 

「ママが帰ってこん。お腹すいた」って。

 

そしたらすぐ飛んできて、おにぎりとおかずを持ってきてくれて

食べさせてくれた。

 

おばあ「ママが帰ってくるまで、一緒に待っとってやるけん、寝ときな」

 

って言ってくれて安心して寝てたんだけど

 

おばあちゃんとお母さんの喧嘩する声が聞こえてきて起きたんよね。

母は台所でこちらに背をむけて、皿を大きな音を立てて洗いながら喧嘩してた。

 

多分おばあちゃんは幼稚園児の娘と小1の息子を置いてこんな遅くまで何してんの!みたいな事で怒ってて

 

「どーせごはんもちゃんと作っとらんとやろ、子どもたちが可哀想と思わんとね!」

みたいなこと言って

 

母はそれに対して「ちゃんとやってます!」

 

みたいな喧嘩だった。

 

大きな声で怒鳴り合う二人はすごく怖かったんやけど

兄は私より先に起きてて

 

「お前のせいで ばあちゃんとママ喧嘩しよるとよ」

 

って言われたんよね。

 

そしてしばらくの間、父がいない時はいつも母に話しかけても

無視をされたり

 

結んでくれていた髪は、父がいる時しか結んでもらえなくなって

作ってくれていたお弁当は、父がいる時だけになってそれ以外は幼稚園の給食に変わった。

 

と私は認識している。

 

RikoのTwitter ⇒@Rikopin0911

Rikoの公式LINE ⇒https://lin.ee/SqbruA5

 

くろりこちゃんのTwitter ⇒@Kurorikopi

 

Riko・黒矢修吾の公式LINE 個人鑑定のお申込みも以下から出来ます ⇒https://lin.ee/XWD3kz9

 

 

 

 

本題の前に

本題に入る前に、Riko家族について話しておこうと思う。

娘が生まれる前のうちの家族は

 

 

父 母 兄 私の四人家族。

 

【父】

私は父の事が家族で一番大好きやったんよね。それは私の娘と同じくらい大好きだった。怒る時は怒るんだけどなんで怒られてるのか分かる怒り方してくれるんよ。

 

あ、これはあたしが悪いなって。ちゃんと納得できるっていうか。

兄と私を平等に扱ってくれていたような記憶がある。

 

困ってるときは一番の味方だったし、私の人生においても父がいなければ早いところこの世に別れを告げていたかもしれん。それぐらい大きな大きな存在だった。

 

【母】

私の人生を振り返る上で、この人が私の最強の敵だったw

もうほんっとに。その話は、この後バンバン出てくると思うんだけど

 

兄の事に関しては過干渉・私には無関心というイメージ。

常に比べられてきたし、母からの愛情を感じた事が思い出せない。

これから振り返る上で感じ取れたらいいけど。

この母との関係性や母とのエピソードは、こうやって話せるまでに32年

かかっている。

 

 

【兄】

私、たまに自分って一人っ子じゃない?って思うくらい【兄】という認識がないのねw

嫌なこともめちゃくちゃされてきて、なんなら母の次に「敵」って感じ。

 

一個上の兄で、小学校から高校まで同じ学校。

だからこそすごく比べられていたし、高校の時なんか大っ嫌いで三年間口もきいてこなかった。

 

 

 

こんな家族と一緒に私はまず幼少期がどんな子どもだったのかを次の記事で語っていこうと思う。

 

 

RikoのTwitter ⇒@Rikopin0911

 

Rikoの公式LINE ⇒https://lin.ee/SqbruA5

 

くろりこちゃんのTwitter ⇒@Kurorikopi

 

Riko・黒矢修吾の公式LINE 個人鑑定のお申込みも以下から出来ます ⇒https://lin.ee/XWD3kz9

はじめましてRikoです。

こんにちは、Rikoです。

このブログを書いていくにあたって、自身のこのブログの目的を

書いておこうと思う。

 

先月34歳になったばかりのRiko。

ふと、自身の人生について振り返ったとき

 

これまで周囲に話してこなかった事、重たい話、私がどうやって今の人生を見つめているかすべて自分自身の整理の為に

 

どこかに書いておきたいなと思った。

 

別に、共感してほしいわけでも

同情してほしいわけでもない。

 

まずは私自身がしっかり自分の人生を辿ってみたい。

 

そして、どう打開してきたのかを振り返りたい。

結果的に誰かの参考になるならそれは、めちゃくちゃ嬉しい。

 

ぐらいの気持ちで書き進めてみようかなって思います。

 

 

簡単に私のプロフィールを出しておこうと思う。

Riko 34歳

バツイチ 小学生の女の子と一緒に穏やかな暮らしを最近手に入れた。

 

占いをやっていて、だれかの相談聞いて悩みの根治に向かうお手伝いを今後本職にしていきたいと思う人間。

 

正確は多分、明るい方。サバサバしているとも言われる(以外とそうじゃないとこもいっぱいある)

 

めんどくさがり屋でずぼらすぎる

 

多分、これから書く記事は重たい内容がたくさん出てくるけど

これが私。

 

プライベートすぎる所は伏せて書くけども、嘘偽りなく話していきたい。

 

 

RikoのTwitter ⇒@Rikopin0911

Rikoの公式LINE ⇒https://lin.ee/SqbruA5 くろりこちゃんのTwitter ⇒@Kurorikopi Riko・

 

黒矢修吾の公式LINE 個人鑑定のお申込みも以下から出来ます ⇒https://lin.ee/XWD3kz9